留学記 From Memphis, Tennessee

聖マリアンナ医科大学 腎臓・高血圧内科 谷澤雅彦

『最終レポート』

COVID-19が猛威を振るう中、私の米国での後期博士課程のプログラムが終了します。タイミングが良く、物々しくなる少し前に帰国しており、日本での生活も少し落ち着いてからこの最後のレポートを書いています。3月末まではテネシー大学のサーバーが利用できるのでまだまだある残務をやりつつ、4月からの復職に備えCOVID-19の情報収集と本業である腎臓内科の臨床知識を大急ぎで呼び起こしている毎日です。

さて最終回のレポートでは、私の米国留学の生活面と研究の総括をしたいと思います。2017年8月に留学の話を頂き、11月に決定、その後visaの取得やら準備をしつつ2018年7月まであっという間に過ぎ、命捨てる覚悟に近い心境で出発しました。その後の生活は毎回のレポートで綴っていますが、典型的な落ち込みから前向きになるという軌跡を描きました。やはり自分は月並みな人間だなと振り返りながら思っています。さて、総括は一言で言うと『本当に行って良かった』、そして『あっという間だった』です。かなり抽象的ですがそれ以外の総括はありません。

 当初はホームシックとなり、渡米後3か月頃ふと聞いた邦楽に涙を流し、子供と散歩しながらも広大な空を見上げ、ゆっくりとした時間の流れから永遠に日本に帰れないのではないか?という漠然とした不安を感じていました。異文化、言葉の壁、何事にも不便、極貧生活など負の側面に結局はずっとさいなまれていましたが、それ以上に有り余るほどの家族との時間を共有できたこと、家族全員が無事故無違反で大きなトラブルに巻き込まれなかったこと、子供および嫁が私なんかよりよっぽどたくましく順応できるということを知ったこと、子供の成長(6歳→8歳、2歳→4歳)をじっくりと見れたこと、貧乏旅行だけどテネシー州周辺や遠くはミシガン、ニューオーリンズまで各地を回ったこと、絶対に知り合うことがなかったであろう素晴らしい日本人の友達が増えたこと、そして何より、『自分でもできたじゃん』、ということを知れたことが大きかったです。

大都会ではないMemphisという土地柄も良かったかもしれません。基本的に人種差別を感じたことはなく(感じていなかっただけ?)、皆フレンドリーでした。毎日銃撃がありますが、住んでいた場所は安全な場所でまさに住めば都という感覚です。Memphis名物のポークリブとBBQソースはすっかり我が家のお気に入りとなり、あまり得意でなかったバーボンも好きになりました。帰国直前に長女の現地小学校の友達を呼んでお別れ会を開催しましたが、呼んだ10人くらいのアメリカの同級生が皆来てくれて、本当に悲しんでくれて、突然アジアから来て2年弱で帰っていく日本人にこんなに良くしてくれたことが、とても感動的で今回の米国留学が、生活の面でも成功であったと感じさえてくれました。

結局留学決定から約3年、留学自体は約2年、今思うとあっという間に過ぎ去って行きました。命捨てる覚悟で行きましたが、誰にも命を取られることはなく、行ってしまえば、『こんなものか』と思えますが、当人は一人だけで、やり直しやパーマン人形で比較対象ができるわけではないので、いくら経験者がアドバイスして安心させようとしても今後留学行く人達は同じような緊張感を持つのだろうなと思います。つまり、経験者:『大丈夫だよ、楽しんできなよ』と新留学生;『いや、不安しかない』というやり取りが永遠に返されるのです。

さて、本業の研究についてです。当初は結果(私の場合は論文がアクセプトされること)がなかなか出ずにヤキモキした気持ちでしたが、そのヤキモキ含めて全過程が勉強になりました。前にレポートしましたが、論文作成は本当に膨大な時間と労力がかかり、特に最初のリサーチクエッションを立て、計画書を書き(study proposal)、共同研究者のみならず他のスタッフにプレゼンテーションをして意見をもらい、最終的なstudy proposalを確定させる所が非常に重要で時間がかかります。これさえしっかりやっておけば、あとは意外とすんなり進むものです。論文作成は経験が増えれば増えるほど(“成功やimpact factorの高さの経験値が上がる”ではない)産生速度が上がります。そして常に自分の位置を他者(私の場合はボス)と確認してホウレンソウ(報告、連絡、相談)をコマめに行うことだと思います。ボスも私のタスク達成速度が上がると、それに答えてくれ迅速に対応してくれましたし、それにさらに答えるように私も努力したつもりです。もちろんこれは、研究に100%費やすことができた私と、50%費やすことができたボスの関係性だからだと思いますが、これを日本に帰って臨床が100%に近い状況でどのように適用するかを今考えています。もちろんすぐには答えは出ないと思っていますが、水車が水の流れを受けて回りだすが如く、最初の勢いがとにかく大事で、後は回り出せば勝手に回り続けると信じて、コツコツ無理をせず、自分でできる範囲でやっていこうと思っています。あ、ちなみに、『英語力』は大きな問題ではないと付け加えておきます。本当です。これも、経験者:『大丈夫だよ、英語なんて大した問題じゃないよ』と新留学生;『いや、海外留学した人が言うと説得力ないわ』というやり取りが永遠に返されると思いますが、、、本当です。それより、study proposalをしっかりと書くこと、メンター(可能なら3人組)と常に連絡を取り位置を確認することをコツコツやるしかなく、最初の一番辛いところを突破すれば、水車の如く持続的に早く回りだすと思います。

あまり重要ではないと思いますが、一応結果について。アクセプトされた原著論文は3本とletter to the editorは1本、現在リバイズ中の原著論文が2本、これから投稿する原著論文が2本で留学を終えます。さらに実質的な貢献ができた共著は6本程度の予定です。一方でRejectもtotal20数回あり、high impact factor journalには軽くあしらわれ、辛酸を十分なまでに舐めました。残念ながらhigh impact factor journalには縁はありませんでしたが、どれも思い入れのある物ばかりです。すぐに日本の診療行動を変えるような研究内容ではありませんでしたが(肝腎同時移植、肝移植関連、C型肝炎からの献腎移植関連)、米国の診療行動に影響を与える可能性のある仕事ができたことは多少誇りです。実はそれより、留学中に後輩と書いたケースレポート3本、原著論文1本、現在記載中の原著論文1本、自身の原著論文1本も日本との繋がりを感じさせてくれ、私が主体で書けたので感激もひとしおです。その他アメリカ腎臓学会(ASN)でoral presentation1本、ポスター4本、今後あるアメリカ移植学会(ATC)でポスター3本がアクセプトされました。テネシー大学の移植チーム内でのリサーチプレゼンテーション5回、腎臓内科チームでのプレゼンテーション3回、後期博士課程の発表会でプレゼンテーションが1回ありました。留学前には出来るなんて考えられなかった英語でのプレゼンテーションも、感覚をマヒさせることで、結局無難に行うことができました。これも全くすごくなんかなく、原稿をしっかり準備して、覚えて、練習していけば、『誰でも』できます。英語しゃべれなくても『誰でも』できます。

とうとう最後の現在の自身の心境ですが、『正直不安で一杯』です。一見productが多く、もう一人でなんでもできてしまうように見られるかもしれませんが、残念ながら米国留学で自身の性格は変えることができなかったので、色々なステージに立ち、様々な優秀な人を見て、上には上がいることを知るたびに、今回の留学で得たproductから来る自信より不安が生まれてきてしまっています。結局、不安→立ち直り→希望→そして未来への不安で幕を締めた留学でした。まぁ、留学というのは全員が全員、スーパーマンになって帰ってくるはずがないので、自分はこの程度でいいと思っています。むしろ天狗になったり、勘違いしないでよかったですし、引き続き謙虚にコツコツやっていこうと決意を新たにしております。一方で『誰かを“少しは”助けられるようになったかな』とも思える部分もあるので、不安の中にも少しは成長したかな?という部分もあると思います。でも、そろそろ自立しないといけませんね。引き続き頑張ります。

最後に、留学中のボスであるDr. Miklos Z. MolnarとDr. Sanjaya Satapathy、友達のハンガリーからの留学生のDr. Orsolya Cseprekál、同時期に奇跡的に4人揃っていたMemphis腎臓内科医の辻田誠先生、小尾佳嗣先生、住田圭一先生、Memphis生活を楽しくしていただいたSt. Jude children’s hospitalの小児科の研究者の皆様と臨床小児神経科医をしていた桑原功光先生、および娘の日本語補習校の皆様にこの場を借りて感謝を申し上げます。また常に忙しい状況にも関わらず、私に約2年という長きにわたり留学を認めて頂いた腎臓・高血圧内科の皆さんにも感謝を申し上げます。今回の経験を綴ったレポートが将来海外留学をする後輩の役に立てば、こんなに幸せなことはありません。そして留学についてきてくれ、貧乏生活をさせてしまった妻、二人の子供、及び色々とサポートしてくれた両家家族にも感謝です。楽しかったです。ありがとうございました!

投稿日:2020年3月24日|カテゴリ:未分類